ターミネーター3級審判員の反省部屋

パブリックプレッシャーを感じながら今日も走る。サッカー3級審判員の"I'll be back!"な毎日

サッカー審判員よ。今のプレーはなぜファウルなのか?なぜファウルではないのか?それが問題だ(中編)

さて今回のお題「審判員は、どのようにしてあるプレーをファウルと判断するのか、あるプレーはファウルではないと判断するのか」の第一歩として明らかにすべきは、そもそもファウルとは何か?ということです。

 

競技規則(の解釈)通りに言えばファウルとは、競技者によって、フィールドの中で、ボールがインプレー中に犯された反則となりますね。

 

でも、これはファウルが成立するための必要条件を述べただけでファウルそのものについては語っていません。

 

では、ファウルとは何かを再度競技規則に求めると、それは:

 

1)不用意に、無謀または過剰な力で相手競技者をける、またはけろうとする(以下省略。第12条ご参照ください)等々の主審の判断によるファウル。

2)相手競技者を押さえる、つばを吐く、ボールを意図的に腕や手で扱う、物を投げる等々やゴールキーパーの反則やボディコンタクトのない反則行為(危険な方法でプレーする等々)。はたまたインプレーでなくてもファウルスローなど正しい手順が守られてないも含めた「程度」は関係なく事象が起こったことで(意図が判断されるハンドなどは別として)成立するファウル

 

のまずは2種類に大別できます。

 

で今回は、言いかえればファウルとそうでないプレーの境界線はどこにあるのか?とというお題なので:

 

ファウル=「第12条の7項目の反則を不用意に犯したと主審が判断したプレー」

 

という風に定義させていただきます。(無謀、過剰な力での反則は正当なプレーとの境界線近くにはない、つまり「明らか過ぎるファウル」としてここでは対象としません)

 

さらに絞り込むと「7項目のうちでボディコンタクトのあったプレー」を対象とします。

 

なぜなら「えー今のファールだろう」って多くの人が思う場面はこのボディコンタクトがあったのにファウルじゃなかった(もしくは正当なコンタクトと思ったらファウルだった)というプレーに集中するからと推測されるからです。

 

となると論点は:

 

「あるボディコンタクトが不用意な反則であると主審はどのような基準で判断しているのか?」

 

ということに集約されると思います。

 

うーん、ここまで書いてきて、前に進んでいるのか、進んでないのか?よくわかりませんね(苦笑)

 

今さらながらキーワードは次の二つ。

 

①不用意な

②主審が判断

 

で、①は「競技規則の解釈と審判員のためのガイドライン」を見れば以下のように「解釈」されています。

 

『不用意な〟とは、競技者が相手に挑むとき注意や配慮が欠けていると判断される、または慎重さを欠いてプレーを行うことである。』

 

さて今あなたが審判初心者だったとして、上の文章を読んで「なるほど!こういう基準でファウルかそうでないか判断すればいいのか!」と思えるでしょうか?「注意や配慮が欠ける」「慎重さを欠いてプレーを行う」とは??

 

言葉の意味はわかるけど、ある具体的なプレーがなぜファウルかと具体的な言葉で説明できますか?

 

ここまで書くとある方は「そんな、理屈ならべるよりも、実戦でちゃんと判断できるか、ファウルとそうでないプレーを見極めて笛が吹けるかどうかが重要なんだよ」とおっしゃるでしょう。

 

全くその通りです。語っても実践できなければ意味がありません。私も最終的にはファウルを直感的に感じること(=その現象の意味を解読せずに瞬時に行動できる)ができるか、どうかが審判員にとって最重要なことだと思います。

 

一方で私のようなおじさん審判員にとっては言葉を覚えることで認識できる事象も多々あります(それは大人になって初めて習うピアノのようなものかも知れません。私も中年越えてピアノ習い始めた口です、はい。)

 

で、そのファウルに対する認識を深めて広げるための言葉である「不用意な〟とは、競技者が相手に挑むとき注意や配慮が欠けていると判断される、または慎重さを欠いてプレーを行うことである。」がそのままではなかなか判断基準と成り難いのは:

 

1)数値化されていない(例えば押す強さとか、スピードとか、時間とが)

2)「注意」「配慮」「慎重さ」という言葉に具体性がない

3)網羅できていない(すべての事象をこの文章だけで把握することは不可能)

 

という点にあると思います。

 

こうなると「不用意なボディコンタクトによるファウル」とは4世紀半ばの哲学者アウグスティヌスその代表著作『告白』の中の『時間論』で語った「それでは時間とは何か。だれにも尋ねられることがなければ、わたしはそれが何であるか知っている。しかし、だれかに尋ねられて説明しようとすると、わたしはそれが何であるか知らない」と同じと言えます(ってまた大袈裟な)

 

はたまた19世紀末から20世紀半ばにかけて生きた鬼才哲学者ヴィトゲンシュタインが掲げた「言語ゲーム」とも状況は似ています。

 

人は言葉(特に母国語)の規則(文法)や理論を知らなくても(説明できなくても)会話できる(=ゲームができる)。

 

ファウルの具体例を幾つか羅列できても、ではファウルとはそもそも何であるかを説明しようとする、はたと困ってしまう。でもとりあえずどのプレーがファウルでどのプレーがファウルでないか分かるってことと似てませんか?

 

ちなみにヴィトゲンシュタインは、このように「暗黙の了解」によって日常言語のコミュニケーションが機能している状態を「明確なルールの定義に先立ってゲームは行われている」という状態として説明することをサッカーの試合を観戦していて思いついたと言われています。(真偽のほどは??)

 

蛇足ながら一般的に思想や哲学といわれているものは解説書によって「理解」することと同時にやはりオリジナルの著作そのものを読んで「体験する」「感じる」ことから得られることが多いような気がします。では、何が得られるかというとそれは自分だけでは気付かない異なった見方、考え方ってことでしょうか。

 

なので、ここで私がアウグスティヌスヴィトゲンシュタインについて書いたことも(稀にある種の解説本にもあるように)100%正確なことと思わないでください。私なりの(ある意味適当な)解釈とか便宜的に極めて単純化されたこと程度にお考えください。

 

そもそも偉大な哲学者が長年思想したことを数行でまとめられるわけがないですし、私自身ヴィトゲンシュタインの著作ひとつ読み終えるのに(たいしたページ数でもないにもかかわらず)途中中断して他の本を読み知識を補いながら数年かかってしまいました。しかも読み終えても全体としてよく分からないことだらけです。

 

それでもヴィトゲンシュタインなんて引っ張り出してきたのは、この「言語ゲーム」の考え方のひとつ「個々の言葉の意味なんてだれも正確に説明していないし、そもそも同じ言葉でも、意味がずれているかもしれない。でも日常会話は支障なく行われている。つまり、言葉の意味そのものに従って発話されたことを判断していると言うより、集団(グループ)の暗黙の了解事項により発話されたことは判断されている」と単純化できる部分が、そもそも「不用意な」なんて言葉の意味を審判自信が定義できなくても、また競技者が競技規則でこの言葉を読んだことさえもなくても「これはファウルだ」と判断されている「ゲームの状況」を考える上でなんかヒントになるなあと思ったからです。

 

しかし、いつもながら何が言いたいのやら(苦笑)。

 

で気を取り直し?最初のお題に戻ります。

 

「あるボディコンタクトが不用意な反則であると主審はどのような基準で判断しているのか?」

 

上記のヴィトゲンシュタインの見方に無理やりこじつけるとたしかに判断は主審が行っています。でもその判断は同時に集団(審判員と選手全員)の判断ともいえます。

 

ですから、(あるボディコンタクトが)ファウルであるかどうかの判断を通じて選手と審判員は(一方的なものではなく相互的な)コミュニケーションを常に行っていると言えます。

 

では、なにをコミュニケーションしているのか?

 

それこそがファールかどうかの判断基準といえるものだと考えます。

 

うーん、堂々巡りのようで、だんだん不安になってきた。はは。

もう、FIFAワールドカップ開幕だし。

 

なんとか後編で結論だします(汗)

 

では、I'll be back.