ターミネーター3級審判員の反省部屋

パブリックプレッシャーを感じながら今日も走る。サッカー3級審判員の"I'll be back!"な毎日

巨匠映画監督と20世紀の知の巨人によるサッカー審判員のコミュニケーション その本質とは?(後編)

さて、審判員のコミュニケーションについて完結編です。前回まで広げた風呂敷を畳んでいきます(汗笑)。

 

前回のキーワードは:

 

コミュニケーションの本質=共同体を立ち上げること。

 

弛緩 : 緊張 という二項対立

 

でした。

 

前回も書きましたが「大人の」コミュニケーションが「同じ時間と空間を等しく同じ気持ちで共有しようよ」ということであるなら、サッカー審判員の役割は選手と「同じサッカーの仲間」としてサッカーの魅力を最大限引き出すことにあります。これがサッカーにおける「共同体を立ち上げること」ではないでしょうか。

 

そのためには、プレーに集中できる環境を作るのが審判員の最重要な任務だと思います。そのためのコミュニケーションであるわけです。だからコミュニケーションの「不均衡」をそのまま放置していたらそのことが心に引っ掛かって雑念となります。

 

天秤を思い浮かべて下さい。私が担当した試合で選手が「今日は、審判はあきらめようぜ~」と声をあげたことで、主審として私は突然イエローカードをその選手に提示しました。天秤の片方のお皿にいきなり反対側に載っているおもりよりはるかに重いおもりを載せたようなものです。とてもアンバランス。

 

かと言っていつもバランスだけとることだけ考えていると激しく異議を行う選手には常に厳しく対処するという一本調子になります。これではその選手の心理状態やパーソナリティを無視した機械的な対応になってしまいます。うーん難しいですね。

 

そこで、弛緩 : 緊張の対立をうまく使って不均衡を均衡にもっていくアプローチが活きてきます。

 

そう前編でご紹介したJリーグ主審の方のアプローチです。

 

弛緩 → 緊張 → 弛緩 と導きながらコミュニケーションの偏りを均衡にもっていき講義に対する受講生の集中を維持しながら同時に楽しんで聴講してもらうための絶妙な対話(コミュニケーション)の実例でしたよね。

 

試合中でもあの方は興奮している選手をうまく落ち着かせながらも毅然とするべきときは毅然として、一貫して選手とともにサッカーの魅力を最大限引き出すという共同体を立ち上げているのではと思います。

 

サッカー審判員のコミュニケーションのまとめ。

 

●アンバランスにならないように(天秤のイメージ)。

●弛緩と緊張(笑顔と毅然とした態度の両方を持つ)

 

 ところで、上記のコミュニケーションのアプローチは社会人の試合であろうと小学生の試合であろうと実行したいことです。よく、小学生の審判をやるかたで叱り役と叱られ役の関係性(この言葉の定義はこちら→「 サッカー主審と副審の「関係性」とは?(関係ではあ~りません) 」)で常に対処されているのを見かけます。子供は文句言ってこないからって何でもかんでも頭ごなしに、一方的に命令調でコミュニケーションするのはNGです。(そもそも「仕返しできない」「自分に不利益なことをできる立場にない」相手には強気で、その逆なら平身低頭(そのような身振りになるということではなく姿勢として)しているのは普段どんな正論言っていても説得力ないですよ~。「子供は親が言う通りではなく、親がやっている通りに行動する」ってことと同じですね。自分も含めて常に謙虚に反省したい点です。はい。)

 

あと、原則論として、相手が投げかけた(話しかけた)のに無視するのはNGです。でも無視することで成り立つ(バランスがとれる)状況も全くないとは言えません。少なくとも必ずしも言葉に対して言葉を返す必要がない場合もあります。またお互い無言でいる、または「ひとりにしてあげる(放っておいてあげる)」ことで成り立つコミュニケーションもあります。うーん、ホントにコミュニケーションって奥が深くて難しいですよね。実践あるのみ。

 

さて、今回の記事でご紹介した小津安二郎監督の「お早よう」を本日あらためて観ました。小品なんて紹介しましたけど、これまさにコミュニケーションの本質を鋭く、でも子供でも分かるお話で楽しく表現している傑作ですね。小津作品の中でも完成度がとても高い。何よりこんなに幸せな気分にさせてくれる作品はなかなかないです。

 

小津監督の映画は概して「話に起伏(ドラマ)がなくつまらない」と言われることもあります。私もなぜそのように思われるのかの理由はわかります(わたしはつまらないとは一瞬でも思いませんけど)。一方で巨匠のイメージだけで神格化されている側面もあることも否めません。かくいう私も最初は蓮實重彦さんの著作なんか読んで理屈から入ったことは認めます。ただ、今では理屈抜きに小津作品が好きなんですね。ご興味あればまず「お早よう」をできれば映画館でご覧下さい(なかなか上映される機会はないとは思いますけど)。

 

あと蛇足承知でクロード・レヴィ=ストロースについて触れておきます。

 

彼はいわゆる「構造主義」の中心人物として現代思想史の中では位置づけれれています。この「構造主義」も説明すると50回シリーズになりますし、私の理解力では到底説明しきれません(嘆笑)。

 

ただ、無理やり説明すると「構造主義」とは哲学とかイデオロギーではなく方法論(もしくは認識や分析するときの態度)であり、その方法論もすでに1960年代に流行のピークを迎えて、いまや後継者もいないありさまです。

 

結局「構造主義」が批判にさらされ、ある意味衰退していったのは「ものごとの図式化、単純化による断定」というその方法自体の硬直化・・・かもしれませんし、イギリスの批評家テリー・イーグルトンの言う「現実のありようをすべてカッコにいれてしまう」というような人間の日常の営みや文脈から乖離した応用性のない姿勢にあった・・・とも言えるかもしれません。(ますます??な展開でごめんなさい)

 

弛緩:緊張といった二項対立を分析対象から抽出するのも実は構造主義のお得意のアプローチです。彼の集大成といえる著作に「神話理論」シリーズというのがあって南米の先住民の神話からはじめて神話の構造を分析しているのですけど、ここでも神話の物語内容そのものではなく、そこに埋め込まれている「コードを決めている公理と公準の体系」を描き出そうとしています。でも、こんなこと書きながら私も彼の著作を読んでも(例えば「生のものと火を通したもの」等)神話自体の物語は楽しめても分析理論には???です(苦笑)。

 

ということでクロード・レヴィ=ストロースが「再発見」した「構造主義」はもう現代においては何の意義もないようにも思えます。一方で、彼がいう「構造=要素と要素間の関係からなる全体」という分析思考アプローチは、まだまだ有効な気もします。かってロラン・バルトがそのアプローチでモード(衣服についての言語)を分析したように(「モードの体系 その言語表現による記号学的分析」で行われている構造主義的分析。何をもって成功しているのか判断しかねますけど、多分バルトらしく?失敗しながら示唆に富んでおります。多分・・・はは)、私もいつの日かサッカー審判員と競技規則の言語記号について構造主義的分析しようかな・・・多分予告だけで終わりますね。はは。

 

さて、風呂敷畳むどころかもう際限なく広がったままで今回の特集(?)は終了させていただきます。

 

審判員の動きとコミュニケーション、この二つは本当に難しい。精進あるのみですね。

 

では、I'll be back.