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ターミネーター3級審判員の反省部屋

パブリックプレッシャーを感じながら今日も走る。サッカー3級審判員の"I'll be back!"な毎日

ベッケンバウアーと釜本と日本兵と (後編)

終戦の日の今日、久しぶりに審判を務めました。

 

日射しの厳しさも一時期より若干和らぎ、心地よい風も吹く季節になりました。こうしてサッカーを普通にできる普通の世界があることの有難味は失くしてしまうまで分からないのではと思えるほど当たり前になっています。

 

さて、昨日の続きシンガポールでのお話です。

 

まず当時のシンガポールのサッカー事情ですけど、選手の活躍はともかくサッカー観戦熱の高さには驚かされました。特にマレーシア系の人たちはサッカーを見るのが大好き。例えば業務で使っていたバスの運転手さんが「早く仕事終ってくれないかな~」と言っていると、現地の日本人のコーディネーターから聞かされたので「何で?」と訊くと、なんでも今夜はサッカーの大きなカップ戦の決勝があって、みんなテレビにかじりついて応援するとのこと。

 

当時日本ではすでにJリーグが発足してましたけど、テレビにかじりついてサッカー観戦(応援)するというのは正直ピンときませんでした。そう、サッカー熱においてシンガポール、マレーシアは日本の先を行っていました。

 

そもそも、アジアの中で日本は(もしくは東京は)他の国(の都市)より進んでいるというイメージがあるかもしれませんけど、当時でもシンガポールの方が数年先を行っている印象を受けました。世界に向けてドアが開かれている場所なのです。戦後、建国の父と言われる故リー・クアンユー元首相は日本をお手本にシンガポールという国を作っていったといわれていますけど、そのお手本を抜いてシンガポールを国際都市にまで育て上げたのでした。

 

さて、そんなシンガポールと第二次世界世界大戦と言えば以前にも書いた私の大好きな映画監督の小津安二郎が撮影隊として赴きたどり着いた地というぐらいしか知りませんでした。小津監督はこの地で多くのアメリカ映画を見て後の創作の糧としたという、ある意味、牧歌的な情景でした。

 

お世話になったコーディネータの方のダンナさんからその夜に聞かされた戦争中の話はそんな牧歌的なシンガポールの情景とは真逆のものでした。チャンギ国際空港に向かう車の中で彼は穏やかな表情を崩さず語り始め始めました。

 

「戦争中、日本から来た兵隊さんに殴られたんだ。少年だった自分は何度も酷く殴られたことを覚えている。」

 

彼は穏やかな表情を崩さず、話しています。ただ、その殴られたことが決して忘れることの出来ない過去であることはその言葉を発する、不思議に静かなでも鋼(はがね)のように強い口調でわかります。

 

そんな過去が存在したこと、今もそんな過去を持ったまま生きている人が自分が何回も訪れている国にいることを知らなかった・・・そんな自分の無知を恥じ入りながら、でもどのようにその言葉に答えればいいのか分からないでいる自分がいました。

 

彼の言葉から滲みでていたのは「理不尽さ」ということのように思われました。とにかくわけもなく殴られたことの屈辱。支配された側と支配する側との理不尽な関係。その理不尽さを生みだした戦争への憤りが感じられたのです。

 

この兵隊に殴られたという話はかって中学生の時に読んだ手塚治虫の著作にあった占領下の日本のエピソードを思い出させるものでした。

 

「あるとき町を歩いていると、米兵に道を聞かれた。相手は六人で、かなり酔っぱらってるので、何を言っているのかわからない。スラングも相当混じっているらしく、ぼくの英語力では、返事もできそうになかった。やっとのことで『自分は英語を話せない』と言ったつもりが、このとき相手からいきなりなぐられた。年のころは、ぼくとほとんど変わらない米兵である。自分をなぐりつけて、大声で笑いながら、去っていった米兵のあとにとり残されて、この時ほど腹の立ったことはなかった。ただ、なぐられてもがまんしなければならないという屈辱は、今でも頭から消えないで残っている。」

                          手塚治虫「マンガの描き方」

 

車中で身の置き所がないように感じられた私を見てか奥さんであるコーディネーターの方が堪りかねたかのように「やめて、そんな話。彼には関係ないじゃない。彼が悪いわけじゃないんだから。」とダンナさんの話を遮ろうとしました。

 

その時私は、謝りたい気持ちでいっぱいでありながら、私が謝ってもダンナさんの心についた深い傷は癒せないであろうことを感じていました。

 

ダンナさんは話を続けました。「日本人を嫌いなわけじゃないんだ。そんなことがあったってことなんだ。そのことが忘れられないんだ。」しばらく車中には沈黙がありました。

 

空港についてまたサッカーの話しになりました。ダンナさんは楽しそうに身振りを交えて話し始めました。「釜本は素晴らしいプレーヤーだった。何が好きって彼はベッケンバウアーのようにフィールド全体を見ながらプレーするんだ。釜本のプレースタイルが大好きだったんだ。」

 

チャンギ国際空港で彼ら夫婦と別れをつげて飛行機に向かった私の中では、救われたような気持と今だ終わらない(生涯終わらないであろう)戦争の傷跡を生々しく体験したことの重い気持ちが入り混じっていました・・・。

 

その後、仕事で訪れたオーストラリアのシドニー郊外の町を一人で訪れた時のこと。オーストラリアが建国された当時からあるその古い町を歩いているといきなり第二次世界大戦で日本と戦って亡くなっていったオーストラリア兵の碑が見えてきました。こんな田舎町で多分今いる日本人は私だけ。オーストラリアの多くの人たちが日本との戦いで命を落としたことを知りませんでした。ふと「大丈夫かな、こんなところ歩いていて・・・」いきなり不安になったことを覚えています。そんなことは杞憂でしたけど。

 

そしてオーストラリアでは多くの日本人も命を落としました。そのこともかって学ばなかった。

 

こうやって知らないまま、私はアジアの国々を訪れていたわけです。日本との戦いで命を落としたオーストラリアの人達は1万7千人以上と言われています。今、何事もなかったかのようにサッカーにおいてはオーストラリアは日本のアジア最強の「宿敵」となっています。オーストラリア戦と言えば今やサッカーの話なのです。

 

このような機会がありながら、今だ第二次世界大戦でなにがあったのか知らないことばかりです。戦争を経験した日本の人達も日本以外の国の人達も年々歳をとられ少なくなっていくばかりの現在、私達には少しでも知って伝えていく義務があるのではと、今までの体験が教えてくれているように思います。

 

そして、当たり前にサッカーができるこの世界を決して戦争の世界に戻してはいけないと強く思うわけです。ましてや紛争の地に、武力による紛争解決のために我々より若い世代や子供達を送り出してならないとも思います。

 

そう少なくとも冷房が効いた部屋でパソコンに向かっている我々が自分達は安全な場所にいながら、若い世代に武器を取らせるようなことに加担してはなりません。

 

「サッカーで戦え!武器を持って戦うな。」

 

そのために知るということの大切さを思い知らされた経験を書きました。

 

では、I'll be back.