読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ターミネーター3級審判員の反省部屋

パブリックプレッシャーを感じながら今日も走る。サッカー3級審判員の"I'll be back!"な毎日

指導という名の「装置」 - サッカー審判員の私論

さて、TVの中継を観ているといよいよ解説者の方からも競技規則の改正に触れるコメントが出てきていたりしますね。ただ・・・やはりというべきか、改正点について正しく理解してそれを適切に伝達出来ているのか?・・・ということになると怪しいと言わざる得ません。でも、それは単に解説者の方の理解不足では済まされない、それ以上のことを今回の競技規則の改正は含んでいることを意味しているのではないでしょうか?要は以前の記事にも「間接的に」書いたようにすぐに理解できる点とじっくり咀嚼しないと正確に(文字通り曖昧にではなく)理解し難い点が混ざっているんですね。

 

というわけで、この辺のことは今後、何回かに渡って記事にしていきたいと思います。ひとつ付記しておくと今回の改正は「変わった」だけでなく今まで曖昧だったポイントが「炙り出された」とも言えるんものなんですよね。はい。

 

さて本日は先週末に練習試合と公式戦(U12とU15)の審判員を務めて思ったことを。で、またまたなんですけど直接的には審判法とは関係ない話です。あと、これから書こうとしていることは実は今まで避けてきたことでもあります。それは「指導」ということについてです。なんか歳のせいにするわけでもないんですけど、ご多分に漏れず最近説教臭い言説が段々と増えてきている私です。

 

あくまでこの「部屋」はサッカー審判員としての私の反省を記事にしているつもりなので、今まで指導者の方、つまりサッカーのコーチや監督の方の批判になるようなことは書いてこなかったつもりですけど、今回はそこに半歩?踏み込むかもしれませんので、「そんな考えもあるんだな~」程度でお聴きくださいませ。

 

さて、いつも通り長い前置きで失礼しました。それはU12の試合でのインターバール時間に私が見聞きしたことに始まります。

 

前の試合の主審を終えてイスに座って別のチームの試合を観ていると一方のチームのコーチと思しき方がベンチ後方にて前半に出場していたと思われる選手に「コーチング」をしていました。聴こえてきたコーチの声はほぼ同じ言葉を繰り返していました・・・。

 

曰く「責任感がないんだよ!」。

 

どうも具体的内容がいまひとつ把握できないんですけど彼女(女子選手です)がディフェンスすべき場面でボールに対して詰めなかったせいで得点になってしまったというような内容です。繰り返される「責任感がないんだよ」のコーチの言葉を彼女は直立不動で黙って聴いていました。そして何度かその言葉が繰り返されて、一切の相互のやりとりはないまま、その「コーチング」は終わり彼女はうつむいたままグランドに膝を抱えて座りました。そのなんとも言えない寂しいそうな表情・・・。

 

 

さて、これが「コーチング」として適切かどうか、はたまた「指導」と言えるものかのかどうか、その後どのようなフォローが彼女にあったのかは私が知るところではありませんので、ここではその時に私が感じた事そして膨らませて考えことを書いてみますね。

 

さてまずこのコーチの方が指導者であったことは間違いありません。ここでいう指導者の定義は「非指導者に指示を出す人」です。とりあえず難しいことは置いといて自分が期待している(プレー)を選手に指示する人ということです。このコーチの方と選手である彼女の間には「指示を出す人と出される人」というもの以上の関係があるのかもしれません(ないのかもしれません)。そしてこのコーチの方は「私は指示などしない選手の背中をそっと押してあげるだけだ。指示待ちの選手なんていらない」とおっしゃるのかもしれません(ないのかもしれません)。

 

さてさて、無理やり上記のような「指導者とは指示を出す人」と定義づけると「責任感がないんだよ」という「指導」は「責任感を持て!」という指示になります。いや、こんなに回りくどく書かなくても、私が目撃したコーチの方が彼女(選手)に期待したことは文字通りそういうことなんでしょう。

 

はてさて、私が3級審判員を目指してインストラクターの方から頂いたコメントの中で(彼らも広義の意味で指導者です)「責任感がないんだよ!」とか「責任感を持って試合に臨んでください」などと言われたことは一度もありません。それはヘッポコ審判員だった(で今も現在進行中)私が責任感にあふれていたから・・・ではなく、インストラクターの方のコメントはすべて「具体的な事象に基づいた」具体的なコメントやアドバイスだったからです。

 

シグナルの出し方や笛の吹き方の基本が出来ていない、オフサイドラインをキープ出来ていない、ボールやプレーに十分近づけていない(走っていない)、ポジションが悪い、主審や副審との事前打ち合わせが不十分等々、これらの事象と自分の審判法の拙さについて指摘されたり「指示(もちろんインストラクターの方々が仰ることすべてが『するべき、従うべし』の視点で発せられているわけではないことを承知であえてこの言葉を使えば)」されるということは審判員としては「責任感がない!」と断言されても甘んじて受け入れざる得ないこと、なのかもしれません。こうなると帯同審判員の中で極まれにオフサイドラインのキープが全くできていない(やる気がない)指導者の方を見るとまさに「責任感がない!」と言われても仕方がないように思います。ここまで酷くないにしろゴールラインまで走っていない副審の方やセンターサークル審判員の方を見ると「ああっ・・・」って思ってしまいます。

 

これをご自身の仕事ぶりにまで拡大してみるとどうでしょうか?社会生活全般に拡大してみてください。「私は責任感が欠如したことはただの一度もない!」なんて言える方はもうイチロー選手や長谷部選手並みの自己管理能力をお持ちなのか、もしくは自己認識能力が著しく欠如しているかのどちらかです。

 

ここまで書くと「ああ、だから精神論はダメっていいたいのね、具体的な事象に基づいた『コーチング』のスキルが足りないってことね」とか「成長過程にある子供と大人じゃ指導っていってもその内容や方法が異なって当たり前でしょう」ってお言葉が聞こえてきそうです。

 

正直、その通りで私が最初に感じたことは、そのコーチの方の指導(この言葉が一方的過ぎるならコーチングと置き換えて下さい)スキルが不足しているなということです。そもそも「責任感が足りない!」と言われた事象(プレー)を彼女(選手)と同じレベル(細部や全体感)で認識できているか(頭の中で再現して同じイメージを共有できているのか)も怪しい。彼女の認識で欠落している部分も確かめずにいきなり「指導」すると、そもそも何のことを言われているのかさえあやふやになっている・・・かもです。もしくは彼女の行動と「責任感がない」という精神状態(はたしてそれはどのような状態のなのか私には説明不可能なんですけど)の因果関係は・・・・?つまりコーチが繰り返している言葉の酷く「一般化」された否定的なニュアンスは感じ取っているものの、それ以上のことが自分の言動や姿勢として具体的に捉えきれず途方にくれさせてしまっている・・・。例えばこのように相手(選手)の理解レベルを確認しながら伝え方を変えたり調整したりする指導者としてのスキル・・・が足りてない(だから決して指導者の方の資質とか人格云々の話ではありません)のでは・・・と思った次第です。

 

でも、この記事で言いたいことはそのような精神論の否定やコーチングのスキル云々ではないんですね。そもそも私にはそんなスキルを語れる知識もありませんし、実行する能力もありませんので偉そうに語れません。一方で私が強く感じて考えを膨らませてしたったのはまさにこの「指導者になる」ということ・・・特に「子供の指導者になること」の重みとそこに潜む根の深い問題についてなんです。

 

「ここまで書いておいてまだ前置きだったのかよ」みたいな展開で、またまた御免なさい。

 

そう、実は我々はだれでも「指導者」になったり「指導される者」になったりした経験があるわけです。そしてどのような形であれ子供のときに受けた指導は色々な意味でその後の子供の行動や考え方にまで影響を及ぼす・・・特にスポーツのように身体の動きを伴った指導は非常に強い影響を成長過程の子供たちに及ぼす・・・と思うわけです。

 

このことを論理的に証明しようとすると大変なことになるでしょうし、残念ながらそのような力は私にはないので、ここでは私の勝手な仮説として申し上げることお許し下さい。

 

「身体の動きを伴った指導」というものは何もサッカーなどの競技に限った話ではなく、私たちが子供のときに行っていた運動会の練習とか体育の授業とかも含まれるでしょう。もっと広義に考えると一定の時間起立整列して校長先生の話を聞く朝礼とか校内で行われる清掃活動なども含まれると言えるでしょう(なぜならこれらは身体の動きをもって《例えば直立しているとか両手を使って床を拭いているとか》指示通り行わなければならない活動だからです)。これら「身体の動きを伴った指導」の極端かつ分かりやすい例が軍隊での訓練となるのではないでしょうか(その指導が良いとか悪いとかいう評価軸は別にして)。

 

で、このような指導は誰かが急に思いついたわけでなく代々引き継がれてきているものです。大袈裟に言えば人類の歴史を通じて世界中のいたるところで引き継がれたきたものと言えるでしょう。なので、指導方法の違いは当然あるにしろ本質的には身体の動きを伴った指導は強力な作用を人間に及ぼす「装置」として使われてきました。ここでいう「装置」とは社会に広く根付いた仕組みとも言い換えることができます。(実はここに書かれていることはフランスの哲学者ミシェル・フーコーの著書「監獄の誕生ー監視と処罰ー」の中で鋭く描き出されています。とても示唆に富む本なので興味ある方は是非ご一読をお勧めします)。

 

なので私たちが子供たちにサッカーを指導する場合も完全に自分独自の方法で行っているというより自分が子供だった時の指導者やその指導者の指導者から受け継いだものが知らず知らずのうちに自分の指導法の中に毛細血管のように広がった結果出来上がったものとも言えるのです。それは指導者という名でなくても学校の先生だったり自分の親だったり部活の先輩だったり、指導主体がその時々において姿形を変えて私たちのその後の言動や考えに大きく影響を及ぼしているのです。

 

何世紀、何代にもわたって引き継がれている、影響が及ぼされている・・・なんて大袈裟な話に聞こえるでしょう。まして「自分は旧態依然とした指導方法とは全く異なる最新のコーチングを理解して身に付けている」なんて方からすると「ナニ言ってんの?」の世界でしょう。妄想・・・でしょうか?そうかもしれません。でも最初に書いた「責任感がないんだよ!」のコーチの方の事象を思い出すにつけ、指導者個々の方々の違いはあるにしろ、やはり社会の大きな仕組みとしての指導方法は何十年も、いや

ひょっとしたら戦前からそう変わっていないのではと、これまた妄想してしまったわけです。

 

いきなりですけど1943年に出版された日本の教育心理学者による指導および指導者についての研究の本があり、そこには以下のようなことが書かれています。

 

●指導の根本原理は被指導者の絶対的服従の要求である。

●先の根本原理を成立させるための指導者資格とは(1)熾烈なる責任観念(2)鞏固なる意志(3)先見的明察の力(4)高慢なる徳性(5)被指導者に対する愛情

の五つである。

 

戦時下という特殊な状況で書かれたものとはいえ、なんか昨今のビジネス本に書かれていても違和感ないような内容ですね。いえいえ「絶対的服従の要求」なんて書いているノウハウ本なんて最近ないでしょう。でも一方で上記のような根本原理とは真逆なことが理想とされている現代にもかかわらず依然「絶対的服従の要求」に似た事象が見られるのはなぜなんでしょうか(ここ数年の学校や部活での指導における事件を思い出してみてください)?(で、一方で先週末U-15でご一緒した先生方は選手(生徒)に一方的な服従を求めているような方々ではありませんでした)

 

そうなんですよね、思うに指導という「装置」、つまり社会に広く根付いた仕組みは個人単位の啓蒙だけではそう簡単には変わらないのではないでしょうか?そのことは戦後の民主主義的な価値観からすると「悪」と捉えがちな戦前の指導法がすべて廃棄されたわけでなく私たちの中に(意識しようとしないとにかかわらず)脈々と受け継がれていることからも推測できるのではないでしょうか?最近教育史に興味のある筆者は、当時の指導法やなぜそのような指導法に至ったかを現代の価値観からだけで一刀両断するだけでなく(かといって過去の礼賛でもなく)客観的に冷静に分析することがとても大切だと思っています。なぜなら子供を指導する「装置」、つまり社会の仕組みはいったん根付くと容易には変えられないし、使い方を誤れば(なにが正しい使い方なのかは今回は触れませんけど)大きく社会を誤った方向へ導いてしまうからです。

 

筆者は個人単位の啓蒙だけでは抗しがたいこの指導という「装置」の巨大さを感じながらも、先に書いたサッカーインストラクターの方々のコーチングに、この「装置」を部分的に変えていくためのヒントがあるように思います。つまり個々のインストラクターの方々も拭い難い影響を子供時代に指導者から受けていながらも被指導者に「絶対的服従の要求」などしない合理的な(そして同時にヒューマンな)コーチングを身に付けられているという事実・・・これには勇気づけられるものがあります。つまりサッカーインストラクターという「装置」が個々の差を超えて機能しているという実例です。このような実例をもっともっといろいろな分野の指導者にも応用していけるのでないでしょうか?(しかし偉そうでごめんなさい・・・)

 

まあ、現実はそう簡単ではないでしょう。そもそもサッカーの指導者は資格がなくても出来てしまうわけですから、指導の仕組みを変えようにもなかなか組織的に行うことは難しいでしょう。

 

さて、冒頭に書いた私が目撃したコーチの「指導」に話を戻すと「責任感がないんだよ!」の言葉は実は彼女(選手)に向けられるべきものではなかったのではないでしょうか?

 

その言葉は本当はそれを口にしたコーチの方自身に向けられるべきものではないでしょうか?

 

それは次の様に自問すべきことだったのではないでしょうか?

 

つまり:

 

「自分は指導者として責任感をもっているのか?」

 

と。

 

ここまできて、言うのもなんですけど「責任感」ってなんでしょうか?

つまり指導者としての「責任感」とは?

 

それこそは指導者の方々が答えをお持ちのことだと思いますのでここにはあえて記しません。

 

さて今回の記事、日々色々とご苦労や悩みが絶えないコーチや監督の方には勝手な言い分に聞こえたことと思います。もし不快に思われたらお詫びいたします。ただ、それだけ皆さんへの期待は大きく重要なことを務められているということが私がここで言いたかったことです。

 

とまあこの辺にして、次回から出来れば改正された競技規則の解釈について切り込んでいければと思っております!

 

では、I'll be back.