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ターミネーター3級審判員の反省部屋

パブリックプレッシャーを感じながら今日も走る。サッカー3級審判員の"I'll be back!"な毎日

多数決による主審の決定

さて、次から次へと競技規則の改正点を記事に・・・と思いつつここでまた妄想してしまいました。例えば前々回とりあげた第5条に新しく追記された条文が、仮に以下のようになっていたとしたら・・・。

 

第5条 主審

 

2. 主審の決定

決定は、主審が競技規則および“サッカー競技の精神”に従ってその能力の最大を尽くし て下し、適切な措置をとるために競技規則の枠組の範囲で与えられた裁量権を有する主 審の見解に基づくものである。ただし状況によって主審は競技者も含む多数決によって決定を行うことができる。

 

(下線部、筆者妄想)

 

多数決で決めてたら試合時間も長くなり、プレーのスピード感もなくなり・・・別の競技になる・・・というか、審判がいる意味がなくなるのを承知で無駄な妄想(意味のある妄想とは?)をしてしまったわけです。しばし無駄なことにお付き合いを。

 

さて多数決とは何でしょうか?多数決ってよく民主主義を説明する(定義づける)時に出てきますよね。いわく多数決=民主主義のように。

 

これを検討するには民主主義とは何かを定義づけないとなりませんけど、そんなことは私にはできないので置いといて、多数決に話を絞ると:

 

多数決とは賛成、反対の数で物事を決める(ある選択肢を採用する)過程および仕組み

 

と面白味も発見もない説明になってしまいます。

 

実はここで考えたいのは多数決によって「正しい決定」が出来るのか?ということです。それにはまず「正しい決定」とは何なのかという問いに答えておく必要がありそうです。

 

例えばサッカーの場合では競技者同士の身体的接触があったある事象がファウルであるなら、「正しい決定」とはその事象を正当なコンタクトプレーではないと判断し、競技規則に基づいてその程度(不用意なのか、無謀なのか、過剰なのか)を試合全体を通じての一定の基準に置き換えて、懲戒罰の種類や再開方法や再開の権利をどちらのチームに与えるかを規則に基づき決めることです。これによってサッカー競技の魅力が最大限に引き出され、選手に大きな不満を起こさせずに試合は円滑に運営されるようになる、ということです(もちろん「決定」だけで達成できることではないのですけど)。

 

つまり「正しい決定」とはまず合理的である(=他のどの選択肢を採るよりももたらされる利益をが大きい)ということです。と同時に腹落ちする(=その選択肢を採ることに共感できる)ということでもあると思います。

 

「利益が大きい」などと書くと何やらお金が絡んだ経済合理性のお話しに限られるように思われるかしれませんけど、必ずしもそれだけではないですよね。抽象的な言い方ですけど、サッカー競技を観戦する楽しみがより大きくなるとか選手の安心・安全がより確保されるということも「利益が大きい」ということになると思います。

 

さてそれでは多数決という仕組みによって人は必ず「正しい(=合理的で腹落ちする)」選択肢を採用することが出来るのでしょうか?

 

よく言われるように賛成・反対の数だけ異なる個人がかかわって下した決定なんだから多くの角度から検討されただろうし、その検討の末だからより合理的な判断になっているはずだし、より多くの人の共感を得る結果になっているはずです・・・し、そうでないとも言えます。

 

これは言い換えれば、よ~く考えて考え抜けば、完璧とまではいかなくても、かなり合理的な判断になっているでしょうし、より多くの異なる意見に耳を傾けて審議を尽くせば全員は無理でもかなり多くの人の共感を呼ぶ選択肢になっている、一方で多くの人がかかわっていても考えぬいてなければ・・・異なる意見を無視して採った選択肢なら・・・「正しい」決定とはほど遠いものになる、ということです。

 

現実の世界を見ても分かるように多数決のすべてのケースで考えぬかれたと言えないばかりか、採決者が決を採ろうとしている案件に全く興味がないなんてこともあり得るわけですよね。また誤った知識や理解で賛成したり反対したりすることもあるわけです(イギリスのEU離脱残留かの国民投票のケースとか、そのようですよね)。

 

また人は常に自分の信念を貫けるほど強い存在でもありません。周りの雰囲気やプレッシャーで賛成か反対を決めることもあるでしょうし、一時の感情の高ぶりで非合理的な判断に陥ることもあるでしょう。

 

「つまり多数で決めた=正しい」と必ずしもならないことは上記からも自明で「数はそれだけでは正しいことの根拠にはならない」というこれまた当たり前のことを表しているに過ぎません。

 

では多数決は止めるべきかというと、現在の仕組みでこれ以外のよりよい決定プロセスは中々思い浮かびません。それは多数決が結果(=決めたこと)自体の合理性を担保している(考え抜かれた審議し尽されたという前提で)だけでなく、決定過程の合理性も担保しているからです。つまりより少ないコスト(=時間、お金、労力)とより少ない不公平感で物事を決定できるプロセスになり得るわけです。

 

ですから多数決は現状では:

 

常に正しい決定が行われるわけではないけど、正しい決定が行われる可能性がもっとも高い=完璧な仕組みではない。次善の策である

 

ということになります。

 

さてサッカーの試合中に主審が「決を採ります!」といって判定を多数決に委ねたら、まあ自チームに有利な判定を求めるのが常、11人VS11人の同数で最後は主審が1票を投じ決まるという流れに・・・ってイマトナニモカワラナイ・・・。

 

まあ、このような場面が訪れたときにすでに退場者を出しているチームはより不利な状況になり、主審の1票でも同数になる可能性も出てきて・・・では副審も多数決に参加してもらおうとなり・・・どうせなら主審と副審合わせて3人だけの多数決にしようかその方が簡単スピーディだし・・・よし競技規則改正だ・・・なんて無駄な妄想はどこまでも続く・・・。

 

というわけで主審は民意を代弁する代表民主主義を体現している・・・いやいや、ひとり裁判官とも言える・・・いやいやそれとも独裁者か・・・・なんて思いながら、いずれにしろ合理的かつ腹落ちする決定を下さなければならない責を負うていることだけは間違いないのです。つまり実社会においても中々体験することのできない決定することにおいての唯一人の当事者なんですね(一方で決定を行えるのは主審ひとりでもその決定に影響を与える「助言」を行える副審以下他の審判員の存在は大きいわけです)。

 

現実社会では決められないトップがいたり当事者がいない(なりたくないので皆逃げる)決定が存在しているのに、主審ってエライなぁ・・・なんて贔屓の引き倒しで本日の妄想は打ち切りでございます。

 

そもそもフェアに言えば、現実社会では何が合理的で腹落ちするか、つまり何が正しいかは視座や視点や視野が変われば一様ではないはずですけど、サッカーでは競技規則とサッカー競技の精神に反して決定することはできないのでブレようがないわけですね。

 

さて・・・もうそろそろ改正競技規則について書かなきゃ・・・です。

 

では、I'll be back.