「見る」ということで繋がる審判と選手
昨日は映画「ゼロ・グラビティ」の話になったので、心機一転、年始企画として?これから暫く審判「実務」により役立ててもらえそうなことを書いていきたいと思います。
題して「試合前の自分との打ち合わせ」です。
と言っておきながら、今日も今一度「ゼロ・グラビティ」を観て思ったこと書かせて頂きます。(なので興味ない方はここで他のページに移動願います。はは。)
さて、「ゼロ・グラビティ」では衛星の破片の衝突による衝撃でサンドラ・ブロック演じるストーン博士が宇宙空間に放り出されます。博士をサポートしていたベテラン宇宙飛行士のジョージ・クルーニー演じるコワルスキー中尉は遠ざかる博士を見失うまいとします。しかし・・・:
Matt Kowalski: Houston, I've lost visual of Dr. Stone!
マット・コワルスキー中尉:ヒューストン。ストーン博士を見失ってしまった!
となってしまい、宇宙空間をくるくる回転しながら遠ざかっていく博士はパニック状態になり:
Matt Kowalski: Give me a visual!
マット・コワルスキー中尉:見えてるものを教えてくれ!
Ryan Stone: I told you, nothing. I see nothing!
ライアン・ストーン博士:だから何も、何も見えないわ!
で暫くの間、通信が途絶えながらも、ようやく博士が落ち着きを取り戻しコワルスキーは博士の位置を確かめようとします。
Matt Kowalski: Flash it so I can see you.
マット・コワルスキー中尉:君の姿が見えるようにライトを点けてくれ。
ここで「見る」ということが生死を決する行為となっています。また「見る」ということで大きな安心感が生まれることにもなっています。「見る」ということですべての存在が可能になるわけです(無線が使えなければ当然宇宙では音は聞こえないわけですから)
通常の生活でこれほど「見る」ということを重大なこととして意識することは、そうそう無いと思います。
話はいきなり今朝自分が経験したことに飛びます。この「ゼロ・グラビティ」のシーンが印象深かったせいか「見る」ことをとても意識していた矢先でした。通勤で列車に乗って閉まりかけたドアの近くに立って外を見ると反対側のホームに娘の姿が。
ちょうど部活で移動中だったようなんですね。ちょっと距離があって向こうはよほど注意していない限りこちらは見えないはず。しめし合わせても、こうもうまいタイミングで見えたりしないなあ(松本清張の「点と線」のアリバイ作りのトリックが現実にはかなり困難なことを再認識?)と思いつつ心の中でコワルスキー中尉のセリフが浮かびました。
I can see you (there) そこにいるのが見える。
ちょっと親バカぶりを発揮すると普段は疎んじられている娘と繋がっている感じがしたんですね。「見る」という行為で。
で、これをサッカーの審判と選手の関係で考えると、やはり「見る」ということで繋がっているように思います。審判は選手以外では唯一フィールドの中もしくはフィールドのすぐ傍にいます。で何をしているかというと、ひたすら「見る」んですね。
観客として「観る」のではなく審判員として「見る」んですね。
選手が「どこ見てんだよ!」と言ったらイエローカードですけど、この言葉にはしっかり見ていて欲しいとの期待も込められています。
見る=信頼を築く
なんだと思います。
よく主審が両目を指でさしながら「見ているよ」と選手にアピールしているシーンがあります。「見る」ということをこれほど意識するのは審判やっている時以外あまりないかもしれません。
もちろん「見る」だけではないのは言うまでもありません。でもやはり審判にとって「見る」ことの重要性は格別なものがあります。
では、何を見ている(べきな)のか?そこが肝要です。
ということで次回から「見るべきものをしっかりと見る」「やるべきことをしっかりやる」ためにもぜひ実行して欲しい「試合前の自分との打ち合わせ」シリーズ?が始まります。こうご期待!
では、I'll be back.