読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ターミネーター3級審判員の反省部屋

パブリックプレッシャーを感じながら今日も走る。サッカー3級審判員の"I'll be back!"な毎日

巨匠映画監督と20世紀の知の巨人によるサッカー審判員のコミュニケーション その本質とは?(中編)

さて、前回コミュニケーションについて以下の定義で話を進めることとしました。

 

コミュニケーション≒贈与と返礼

贈与=心理的な負い目を相手に感じさせること。

返礼=負い目を払拭するために再び贈与すること。

 

または:

 

コミュニケーション≒不均衡の相殺

 

う~ん、風呂敷広げ過ぎて後悔(困笑)。でもめげずに(?)書き散らかしますのでよろしければお付き合い下さい。

 

さて、上記定義についてお話する前に私が主審を務めた試合でのコミュニケーションの大失敗について。

 

それは高校生の練習試合でのこと。試合開始早々にペナルティエリア内のゴール寄りに高く舞い上がったボールをゴールキーパーが両手で保持しようとジャンプしました。直後にキーパーは落球してしまい、攻撃側選手がシュートしてゴールに突き刺さりました。私は得点を認めたわけですけど、キーパーからは「えー」の声が。そしてそのままブッキングしながらセンターサークルへ向かっている私の背後で得点されたチームの別の選手が味方に向かって「今日は、審判はあきらめようぜ~」の声をかけました。その声に瞬時に反応した私は振り向きざまにその選手にイエローカード提示。異議と見なしたわけです。

 

警告を受けた選手は一瞬面食らった様子。で、実際今になって記憶をたどるとキーパーが両手でつかんだ瞬間に攻撃側選手がチャレンジしたことで落球したとも見える微妙な判定だったかもしれないので、彼らの言い分もあながち的外れではないかもしれないわけです。そして前半終了後にその落球したキーパーが「礼儀正しく」ボールを保持した瞬間にチャレンジされたのでは?と私に尋ねてきたので、自分はそう見なさなかった旨を話ました。彼は一応私がその瞬間を見極めたことに(ただし判定が正しかったかは別として)納得した様子。

 

ところが私に警告を受けた選手は(当たり前と言えば当たり前ですけど)ハーフタイムのインターバル中も私と話することなく、でも私を見ながら何か仲間と話しています(視線を感じるわけです)。「くそーあの審判」というような彼の気持ちが伝わってきたように、その時の私には感じられたので、務めて平静を装い副審の二人と後半に向けての確認をしていました。

 

さて後半、そのままの雰囲気を引きずりながら試合は続き20分ほど経過した時のこと。最初に得点したチームの選手がペナルティエリアのすぐ外でファウルを受けました。当然、守備側選手は壁を作ったわけですけど、その壁をコントロールしているのが前半に私に警告を受けた選手。彼は中心選手のようです。その壁は明らかにボールから9.15m以上は離れていないので私は笛を吹いて壁のコントロールに入りました。

 

さて歩測で壁を下げる距離を決めて左手を前に突き出して「ここまで下がろう」といっても・・・壁は動かず。笛を吹いても・・・壁は動かず。あれ?

 

それもそのはず警告を受けた選手が壁の(後方から見て)右端で「よし俺に合わせろ。俺に合わせろ。」と言って主審の私に代わって(苦笑)壁をコントロールしているわけです。うーん。これは「切り札」を出すしかないか。

 

というわけで、壁が下がらない原因であるその選手の真横に行くと耳元で囁くように「もう一枚イエロー出すよ」と伝えました。そして魔法の言葉に導かれるように壁は下がり始めました。

 

さて、この試合での主審としての私の大失敗は最初の得点シーンでの異議に対して適切なコミュニケーションをとらず、結果冷静さを失ったかのように唐突に警告を与え、そしてゲームマネジメント不能の危機まで招いたことでした。

 

まず最初の「異議」に対しては選手のフラストレーションを受け止めつつ、主審としてしっかり見極めている旨を伝えるというようなコミュニケーションをすべきでした。

 

ここで:

 

コミュニケーション≒贈与と返礼

 

という定義の登場です。

 

 この定義は前回ご紹介した本「現代思想のパフォーマンス」の中で民族学者であり偉大な思想家であるクロード・レヴィ=ストロースについて紹介されている章から拝借しております。ただ、これから書くことはそれを拝借しながらもわたしの勝手な解釈も入っています。もしご興味あれば「現代思想のパフォーマンス」は面白い本なのでぜひご一読下さい。

 

さてこの私の大好きなレヴィ=ストロースの思想(というか方法論とでも言えましょうか)を親しみ易く紹介するために著者の内田樹さんと難波江和英さんは、これまた私が一番好きな映画監督でもある小津安二郎を登場させています。

 

クロード・レヴィ=ストロース x 小津安二郎

 

うーん。夢の共演です。しかし、サッカー審判員の話からかなり遠くなってしまいました。そう、審判員のコミュニケーションについてなんです。

 

すごーっく、単純化して言えば、「会話(とは限らないのですけどここではとりあえずそうします)はその表面的な意味や内容に関係なく、言葉をやりとりする行為(=交換)自体に価値がある」というのがレヴィ=ストロースの考え方です。

 

これ、めちゃくちゃ単純化しています。怒られるの覚悟で(誰に?)

 

で、そのことを分かりやすく紹介した実例が小津安二郎監督の映画「お早よう」なんです。

 

かって毎週末、今は無い某名画座で小津作品の2本立てを観ていました。現存している小津監督の作品はどれもほとんど家族についてのお話です。特に戦後の作品は毎回同じような筋立て(娘が嫁ぐまでの話)なんですけど、この「お早よう」は小津監督50作目の節目でありながら気負いのないコメディ小品になっています(1959年公開)。子供の視点と大人の視点がすれ違う何気ない日常の中に、コミュニケーションの本質が見え隠れします。それを端的に表しているのが、テレビを買ってもらえないことで父親に反抗する主人公の子供と父親の次のやり取りです。

 

父(笠智衆)「・・・子供のくせに余計なことを言い過ぎる。少しは黙ってみろ」

長男(設楽幸嗣)「余計なことじゃないやい。欲しいから欲しいって言ったんだ」

父「それが余計だって言うんだ」

 長男「だったら大人だって余計なこと言ってるじゃないか。コンニチハ、オハヨウ、コンバンワ、イイオテンキデスネ、アアソーデスネ、アラ、ドチラヘ、チョット、ソコマデ、アア、ソウデスカ、そんなことで、どこにゆくかわかるかい!アア、ナルホド、ナルホド、なーにがナルホドだい!」

父「馬鹿ッ!」

 

どうでしょうか。長男は会話(コミュニケーション)は相手が理解できる意味のあることを明確に伝えてこそ価値があると信じる合理主義者なわけです。これは全くその通りです。

 

では、一方で長男が揶揄している我々大人の会話は全く「価値のないこと」なんでしょうか?

 

そんなことはないですよね。私たちも職場でまた週末サッカーの集まりで会った人に「ども、ども」なんてやりとりしながら、なんかいい気分になれますよね。これ、もし一方が言葉を投げかけたのに、相手が無言だったら、ちょっと嫌な気分になりますよね。この子供から見たら合理性に欠ける無駄なやりとりにコミュニケーションの本質があると思いませんか?

 

言葉(もしくは非言語=例えば会釈、アイコンタクトなどなど)を相手に投げかけて(=贈与して)その投げかけられた相手はそのままの何もしないわけにはいかなくなり(=もらいものに対する負い目を感じ)、言葉(もしくは非言語)を投げ返す・・・以下贈与と返礼が続くわけです。

 

もちろん実際のコミュニケーションでは意味や意図が凄く重要であり、内容ありきなんですけど、それだけでは完成しない人と人のコミュニケーション(これが人工知能アルゴリズムと統計データを高度にプログラミングされたコンピューターとのコミュニケーションなら別でしょうけど)の本質を小津作品の「お早よう」の会話が見事に描き出していると思いませんか?

 

ここに「コミュニケーション≒不均衡の相殺」であることが実例として分かりやすく挙げられているわけです。

 

つまり相手が言葉にしろ言葉以外のシグナルにしろ、投げかけたことに対して無視しては「アンバランス」なわけです。また相手の投げかけたシグナルと釣り合いがとれないシグナルを投げ返しても両者の間には「不均衡」が発生してしまいます。

 

よく正論で相手を言い負かすなんてことありますよね。一方は勝ち誇っている、またはすっきりした気分ですけど、もう一方はフラストレーションの塊になっているような状況です。また、よく駅のトイレなんかに入ろうとしたら出てくる人と鉢合わせしそうになって「失礼」と言ったのに相手は無言だったとか、「チッ!」と舌打ちされたとか。

 

「お早よう」の子供の視座なら、正しいことを言ってる方が勝つのは当たり前だし、鉢合わせの原因が相手にあれば無視も不快を表現するのも筋が通っているわけです。

 

でも「大人」のコミュニケーションは違いますよね。主張や理由はともかく「与えあう」ことで「同じ時間と空間を等しく同じ気持ちで共有しようよ」という側面もあるわけです。ここにコミュニケーションの本質があります。

 

コミュニケーションの本質=共同体を立ち上げること。

 

ここで再度、前回ご紹介したJリーグ主審の方のコミュニケーションの秀逸さ、そして今回ご紹介した私が主審を務めた時のコミュニケーションの拙さが見えてくると思います。

 

そう「共同体を立ち上げた」かどうかの違いでもあるわけです。

そして、その時の要としてあるのは:

 

弛緩 : 緊張

 

という二項対立でもあるのです。

 

さて、いよいよ次回後半では、広げた風呂敷を畳もうとしてもっと広げてしまった今回のまとめが出来ればと思います。

 

えっ?簡単なことをこねくり回して難しく言ってないで、もっと簡潔に書くことがコミュニケーションの要諦だろうって?仰せのとおりでございます。かくいう私も仕事においてプレゼンテーション資料を作る時は「小学六年生でもわかる言葉で極限まで文字数(情報量)を少なくして書く」ことをルールとしております。はい。

 

よろしければお付き合いください。こんな審判員の妄想に・・・。

 

では、I'll be back.