ターミネーター3級審判員の反省部屋

パブリックプレッシャーを感じながら今日も走る。サッカー3級審判員の"I'll be back!"な毎日

サッカーのファウルと反則と違反のちがいを説明できますか?(前編)

そもそも、「ファウル」と「反則」と「違反」はちがうものなんでしょうか?

 

それぞれの言葉を別の言語表現に置きかえることができかつ、その表現がそれぞれの言葉の間で入れ替え不可能なものであれば、すっきりした形で?「ちがう」と言えるでしょう。

 

例えば:

 

ファウル=Aである。

反則  =Bである。

違反  =Cである。

かつ

ファウル=B,Cではない。

反則  =A,Cではない。

違反  =A,Bではない。

 

という風に。

 

でも実際は、競技規則にも明確な形でA,B,Cのようには表記されていないので、今回ちょっと風呂敷を広げてそれぞれの「ちがい」を説明しようと試みているわけです。

 

今私は、競技規則に明確な形で表記されていないと書きましたけど、唯一「ファウル」だけが独立した項目(12条)でそれが具体的にどのような事象であるかが明記されています。

 

つまり12条の見出し「ファウルと不正行為」のファウルという言葉と条文をそのまま結び付けると:

 

ファウル=直接フリーキックとなる10項目の反則および間接フリーキックとなる7項目

 

とも定義できます。

 

しかしこの定義はすでに「ちがい」を説明するためには「自己矛盾」をおこしてますね。競技規則を素直に解釈して書いた上記の「ファウル=A」の文面では結局「ファウル=反則」と解釈でき、やはり「ちがい」などなくて同じと考えるべきとなってしまいます。そして同じく「反則=違反」なんでしょうか?

(念のために記しますと以前も書いたように英文でもfouls ファウルoffences反則 infringements違反と別々の言葉が使われています)

 

自然に考えれば、このように異なる言葉が意図的に(規則にある言葉なので思いつきで「なんとなく」使ったとは考え難いですよね)使われているならやはり「ちがい」があるはずですけど、それぞれの言葉に定義を与えるというアプローチでは「ちがい」を完全に説明することは無理そうです。ですので別のアプローチを考える必要があります。

 

さらに今回はお約束したように「実用性のある回答」が欲しいわけです。「実用性のある回答」とは「ファウル」と「反則」と「違反」の違いを正確に把握することでレフェリングを行うときに競技規則を正しく適用できる助けになるということです。とくに3つの言葉のどのケースでも通常はアドバンテージを適用する、もしくは見落としがない限りは笛が吹かれてプレーが停止されるのが常ですので正しい再開方法(再開場所も含め)を指示することがレフェリーには必須となります。ですので今回「ちがい」を説明できることで実践の場におけるいかなるケースでも直感的に(考えることなく瞬時に)正しい再開方法を指示できるようになろうってことです。

 

というわけで、あえて回り道でも今回は競技規則やガイドラインにある言葉をできるだけ詳細に見ていきたいと思います。その見かた(=アプローチ)は以前のこの記事で書いた(「巨匠映画監督と20世紀の知の巨人によるサッカー審判員のコミュニケーション その本質とは?(後編)」) 「構造主義」を準用するという、恐れ知らずの愚か者になってみます。

 

その時書いた:

 

クロード・レヴィ=ストロースが「再発見」した「構造主義」はもう現代においては何の意義もないようにも思えます。一方で、彼がいう「構造=要素と要素間の関係からなる全体」という分析思考アプローチは、まだまだ有効な気もします。かってロラン・バルトがそのアプローチでモード(衣服についての言語)を分析したように(「モードの体系 その言語表現による記号学的分析」で行われている構造主義的分析。)、私もいつの日かサッカー審判員と競技規則の言語記号について構造主義的分析しようかな・・・多分予告だけで終わりますね。」

 

の試みをいよいよ実行です!(風呂敷が過去最大規模で広がっております)

 

アプローチが構造主義であるなら紐解くべきはまず「要素と要素間の関係」となるはずなので、それはここではまさに「ファウル」と「反則」と「違反」の関係の解明です。

 

言葉の定義をはっきりさせると:

 

関係=見かけが変形しても変わらない構造

構造=関係の仕方の共通性

 

となります(堂々巡りのような定義です。)

 

ですので、最終的に今回の分析を終える時には競技規則やガイドラインのあちこちに散らばっている「ファウル」「反則」「違反」という言葉が持っている共通した繋がり方とその繋がりによる全体が見えてくる・・・はずです。

 

もう何がなにやらの状態ですけど、さらに調子に乗ると「構造主義」的に分析するならやはり構造主義へおおいなる示唆をあたえ、その方法論への扉を開いた「現代言語学の祖」フェルディナン・ド・ソシュールの次の言葉を念頭に進めたいと思います。

 

「あらかじめ確定された諸観念などというものはなく、言語が現れないうちは、何一つ分明なものはない」フェルディナン・ド・ソシュール

 

これを大胆に言い換えると「ファウルや反則や違反という事象(実体)やそれがどんなものであるかという考えが先にあってあとから名前を付けたのではなく、それらの言葉があることではじめて事象や考えが存在もしくは認識されるようになる」ということです。「虹は七色」という言葉があるので7種類の色彩が認識されるのであって、実際に7色かどうかが先にあるわけではないということです(ますます分からなければごめんなさい)。これぞ「世界は言葉で作られている」ってやつです。

 

これは私達が如何に言葉によって支配されているか(競技規則の言葉と実際のレフェリングを例にとって次回以降ご説明しますね)ということでもあるわけなので、まさに今回も言葉にこだわろうってことです。

 

さて、もうここまで広げたほどはないくらい広がった風呂敷。1年間の連載小説もしくは大河ドラマのようなボリュームになりそうな予感。ちょっと風呂敷をゆっくり見る時間が欲しい、くださいという気持ちとともに中編へ。

 

では、I'll be back.