ターミネーター3級審判員の反省部屋

パブリックプレッシャーを感じながら今日も走る。サッカー3級審判員の"I'll be back!"な毎日

サッカー競技の精神

競技規則の改正について書かなければと思いつつ日々過ぎてゆくばかり。

 

その他書きたいこと諸々ありますので、なんとか酷暑に負けず?書いていきますね。

 

さてその競技規則の改正。第1条から順番に取り上げていくにもまだまだ全てを理解出来ておらずどこから始めようかなと競技規則をパラパラとめくっておりましたら目についた一文がこれ。

 

第5条 主審

 

2. 主審の決定

決定は、主審が競技規則および“サッカー競技の精神”に従ってその能力の最大を尽くし て下し、適切な措置をとるために競技規則の枠組の範囲で与えられた裁量権を有する主 審の見解に基づくものである。

 

英文では:

 

Law 5  The Referee

2. Decisions of the referee

Decisions will be made to the best of the referee`s ability according to the Laws of the Game and the ‘spirit of the game’ and will be based on the opinion of the referee who has the discretion

 

となります。

 

この文章を完璧に説明することは難しいように思われます。それぞれの言葉の意味は理解できても肝心の「サッカー競技の精神」については定義が与えられてないからです。ちなみに競技規則に付記されている「すべての改正点の詳細」において「”サッカー競技の精神”のコンセプトは競技規則の中で表現されている」と説明されています。ウ~ン、コンセプトって・・・なに?(あとこの文章英文と照らし合わせてみると日本語訳にちょっと疑問ありです。)

 

というわけで、見事に何も解説できていない私でありますけど、この条文を取り上げたワケは競技規則の中において初めて「主審の決定は競技規則だけによって成されるものではない」ことが明文化された画期的なものだと思うからであります。

 

もちろん決定の根拠は常に競技規則に求められなければならないわけなんですけど、規則を自動的に適用するだけでは不十分というわけですよね。従来も「競技規則の解釈と審判員のためのガイドライン」において「その精神」とか「コモンセンス」という言葉はあり、考え方そのものが変化したわけではないわけです。一方で競技規則と明確に分けてその存在が公に認められた「サッカー競技の精神」が競技規則に明記されたので競技規則になった・・・うーんクラインの壺的構造。

 

結局うまく説明できていない「サッカー競技の精神」についてはこちらの記事も再度お読みいただければ幸いです → 「 サッカーのファウルと反則と違反のちがいを説明できますか?(後編 まとめ) 」

 

他の競技はいざ知らず「ルールはそうだけど、それってずるいんじゃな~い」と思われる事象にどう、いや誰が、そして対処「すべし」と競技規則に明文化されているってサッカーという競技の財産なのではないでしょうか。

 

では、I'll be back.

「ハピネス イズ 『ザ』 ウオーム ミソ スープ」 酷暑での副審の学び

いや~今日も暑かったですね。まるで外は太陽系第三惑星の表面だとは思えないほどの高温でした。

 

先週末は2日間とも社会人の方々の試合にて副審の任務。危険なほどに高温多湿の中以下の三つの学び(?)がありました。

 

① やはり基本はそして究極的にもサイドステップ

繰り返し書いていることですけど副審の最重要任務と言えるオフサイドの反則の監視においてフィールドに正対していることのメリットは計り知れませんよね。特に微妙な選手の動きや位置を監視するには自分の両目の正面にオフサイドラインをおいて見続けることが欠かせません。しかし、サイドステップが常に維持できないのは選手の動くスピード(ボールの場合もある)がもはやサイドステップでは追尾することが不可能な速度になって並走する必要がでてくるから・・・という至極当然な理由。または前半はサイドステップでオフサイドラインをキープ出来ていたのに後半疲労によりそのスピードでのサイドステップが出来なくなった・・・つまり持久力の問題ですね。

 

で、週末の試合ではこんな状況がありました。

1)FWの選手の一人が全力疾走でドリブルしながらボールをゴールへ向かって運んでいる。

2)DFの選手二人が並走して追いかけている。

3)その二人のDFの間をもうひとりのFWの選手が全力で並走してパスをもらう機会をうかがっている。

 

この場合、副審は微妙に変化するオフサイドラインをキープしながら正確に各選手およびボールの位置を「記憶し直し」判定に備える必要があります。微妙に変化するオフサイドラインとは「二人目」の守備側選手が最終ラインになっていることもあれば、次の瞬間にはボールが最終ラインになっている場合もあるのでその変化に応じて選手の位置の記憶を書き換え続ける必要があるということです。なんせオフサイドの反則の見極めは過去の位置関係と今の瞬間の事象を正確に照らし合わせる作業なわけですから。なのでこの「記憶の書き換え」を正確に行う最も良い方法はサイドステップによる監視です・・・あれ?話が回っている・・・。

 

 似たような事象として昨日のリオ・オリンピックにおける日本代表VSコロンビア代表の試合での浅野選手とDF陣の競り合いの動きであったような・・・。浅野選手がトップギアに入ると国際副審の方でもサイドステップで追尾することは不可能です。でも上記のような微妙な位置関係、例えば並走している味方の攻撃側選手がオフサイドライン(並走しているDF選手またはドリブルされているボール)より前方に出て走っていた(すなわちオフサイドポジションであった)のにオンサイドと判断したり・・・このようなトップスピード時の並走中の判定ってほんと難しいです。

 

なのでサイドステップのスピードの限界に挑む必要があります。まずどの程度のスピードならサイドステップは維持できるのか・・・たとえトップスピードになってもどのカテゴリー(もしくは選手のレベル)なら自分のサイドステップ走力で追尾できるのか・・・今より一つ二つ上のスピードで移動し続けられるサイドステップ力を磨きましょう。で、それを試合全体を通じて維持できる持久力を養いましょう。

 

筆者の経験上、特にシニアと一般的に呼ばれる年齢層に達したサッカー審判員であれば日常的な下半身筋トレと柔軟性の向上(特に足首の多方向への動きと可動域の拡大)が欠かせないように思います。

 

② 飲水タイム時のベンチコントロール

またかよ!の飲水時の事象について。当然週末も飲水タイム必須の天候。で自分はA1としてアウエーチームの前半の飲水タイムでの監視をしようとしたら・・・あれ?飲水ボトルがベンチエリアの境界線沿いにでてまへん。と思っていたら選手が発した言葉が「ボトルとりに行きたいのでフィールドから出ていいですか?」。そしてベンチに一人いる選手兼コーチ?の方が「人がいないもんで(ボトルを出すことが出来ませんので悪しからず)」。私は心の中で『あなたがいるじゃないの~事前に用意しておいてよ~』。

でここで質問です。私がとった行動は次のどれでしょう?

A: 選手がフィールドの外へ出るのを認めずベンチに残っている一人に速やかにボトルを並べるように指示した。

B:選手がフィールドの外へ出ることを認めてベンチに残っている一人に飲水タイムに向けて用意しておくようにお願いした。

C:選手がフィールドの外へ出ることを認め速やかに飲水させて、前半が終わった時点で本部(4th該当の運営本部担当の方)に後半に向けてのアシストをお願いした。

 

まあ、すぐに答えを言ってしまうとCだったわけです。Cが最善の策かと言うとすでに、上記のような事象を招いてしまっている時点でアウトなんですよね。つまり飲水タイムをスムースに進めるために必要な協力的なベンチワークのお願いを試合開始前に行えてなかったのが「敗因」なわけです。

 

Aにしてしまうと原則は守れても(大会規定であった)「飲水タイムはランニングタイムとする」ことは守れない(=大幅に試合時間をロスしてしまう)ことになりますし、選手やベンチとの不要な軋轢も生みかねません。Bも結果Aと同じことになりかねません。で、次善の策としてのCなわけです。ただフィールドの外へ出ることを黙認することは一方のチームに不公平感を生みかねないので仕方ないので認めるという意志を明確に示す必要があると思います。・・・で学びはスムースな飲水タイム進行には試合前のベンチ役員との確認合意が欠かせないという基本の巻きでした。

 

③ 熱中症対策の切り札は和食のど真ん中の「アレ」!

 

そして週末の試合のクライマックスは気温がピークになるであろう時間帯での2試合連続の任務。社会人の方といっても、カテゴリー的には自分の体力を使い切ることなくこなせる自信はあったものの、そこは恐るべし熱中症の魔の手。

 

この日はマイドリンクを持参することなく自販機から水とか塩分の含まれるドリンクを選んで飲んでいたのですけど・・・うん、なんかちょっと体に力が入らないような・・・とまあ何とか試合は無事に終了したのですけど・・・筋力を残しながらもちょっと脱水気味なのであります。いや水分は体に補給されていたのでしょうけど、この時多分塩分を含むミネラルは試合前からウォームアップも含む発汗でかなり失われていたように思われます。

 

過去自分で熱中症に注意すべしの記事を書きながら・・・このざまです。やはり経験って重要です。そして、この経験から得たことは・・・。まずこの日は遅めの朝食を栄養バランスも考えしっかりとったつもりでした。というのは会場入りしてキックオフまでの食事はとらないつもりだったので・・・。これがよくなかった、やはり会場入りしても走るのに邪魔にならない程度には食事すべしです。

 

そうして自宅に戻り夕食時に「美味い!身体が求めていた味だ!う~ん、細胞から失われていたものが砂漠に染み入る水ように行き渡る感じ~」と感動しながら頂いたのがカミさんが用意してくれていた暖かい味噌汁なのであります。しかも猛暑の季節にはこれ以外にないのでは?と思わせる最高の食材がその味噌汁の具なのでありました。

 

その食材とはモロヘイヤ。筆者の大好物であります。実家では父親が趣味の野菜づくりでモロヘイヤを栽培していることもあり、茹でたものをサラダ代わりに食べたいだけ食べます。ネバネバが効きます。納豆と和えるとか、梅肉と和えるとか、もう最高の夏の食材ですね。

 

というわけで試合前にこそ温かな味噌汁で熱中症対策です。モロヘイヤ入りなら完璧。胃にもたれることなく、あなたをサポートしてくれるでしょう。ってモロヘイヤ協会(あるのかどうか?)の回し者ではあ~りません。

 

それにしてもその土地で食べ続けられた食はやはりその土地の気候風土にあったものになっているのですね。味噌汁万歳!

(追記:よくよく考えればモロヘイヤは北アフリカ原産の野菜。その食材を身体が欲しているということは・・・う~んそれだけ地球温暖化の影響で日本の気候が変わってしまっているということでしょうか・・・)

 

では、I'll be back.

 

 

「緊急覆面座談会」 Part2-「2016/2017年競技規則の改正」の裏のウラ

(控室にて)

 

審判員Q「しかし・・・今回の改正は確かに歴史的な事件だよ。」

 

審判員P「それは認める。確かにこんな改正は審判員になってから無かったのは事実。」

 

審判員R「そういえば、そろそろ新しい競技規則が協会から送られてきていいころなんですけどね」

 

審判員T「あれ?まだ届いてませんか。私のところにはもう来ましたよ。まあ、WEBで公開されていましたから、あらためて全部目を通してませんけど・・・。」

 

審判員S「多岐にわたる改正だから。」

 

審判員Q「そうそう、だから一遍に覚えようとしても無理・・・だから重要なところをまず押さえるべし。」

 

審判員R「重要なところっていうと・・・?」

 

審判員Q「まずはカードや得点が絡むようなところでしょうな。『三重罰』とかオフサイドの違反と罰則におけるいわゆる『オフサイドラインの変更するタイミング』なんかは競技規則の適用を誤ると重大な結果を招きますからな。まあ、極端な話キックオフ時の『ボールは、けられて前方に移動したときにインプレーとなる』が『ボールは、けられて明らかに動いたときにインプレーとなる』へ変更されたなんて規則適用仮に間違えても大勢に影響ないですから・・・。」

 

審判員P「うん?そりゃちがうでしょう。結果の重大性って仰りますけど、そもそも数試合に1回遭遇するかどうかの事象についての改正規則を先に覚えるより、出現頻度が圧倒的に高い改正ポイントを先に覚えた方が得策ですよ。キックオフ時に笛を吹きなおして『前に動かして』なんてやったら、一瞬でベンチや観客からも信頼を失いますよ」

 

審判員Q「いやいや結果の重大性を鑑みて優先順位をつけるなら・・・」

 

審判員P「いいえ。出現頻度ですって、優先順位は・・・」

 

審判員S「潔く、すべて覚えるべし」

 

審判員R「結果の重要性か?出現頻度か?難しいです・・・うん?例えばキックオフの時にボールを後ろに蹴って、後方の選手がそのままシュートしてゴールに入ったのにゴールに入る前に主審が間違ってやり直しの笛を吹いていたら・・・得点の機会を主審が奪ったことに・・・しかも出現頻度も高い場面・・・」

 

審判員Q「まあそれは・・・」

 

審判員P「その出現頻度はあまり高くない・・・」

 

審判員T「それって改正前でも同じことのような、つまりJリーグのキックオフのマネして4種なんかで後方にボールを蹴ってそのボールをシュートしたらゴールに入った・・・そのまま得点認めたら・・・揉めますよね」

 

審判員S「だから優先順位なんてつけずに潔くすべての改正規則を覚えるべし」

 

審判員R「そうですよね。やはり覚えるしかないですね。ところで皆さん競技規則の改正についてすべて理解できました?」

 

審判員Q「そりゃまあ・・・」

 

審判員P「だいたいね・・・」

 

審判員T「う~んなかなか一回読んだだけでは・・・」

 

審判員S「正確に理解することは一筋縄ではいかない」

 

司会「それではそろそろ本番2回目いきま~す。今回は『改正ポイントを分かりやすく解説』というテーマでお願いします!」

 

審判員一同「(緊張しながら)ちょ・・・ちょっとトイレへ・・・」

 

Part3へと続く(構成:T-800)

 

では、I'll be back.

 

 

 

 

 

 

 

 

指導という名の「装置」 - サッカー審判員の私論

さて、TVの中継を観ているといよいよ解説者の方からも競技規則の改正に触れるコメントが出てきていたりしますね。ただ・・・やはりというべきか、改正点について正しく理解してそれを適切に伝達出来ているのか?・・・ということになると怪しいと言わざる得ません。でも、それは単に解説者の方の理解不足では済まされない、それ以上のことを今回の競技規則の改正は含んでいることを意味しているのではないでしょうか?要は以前の記事にも「間接的に」書いたようにすぐに理解できる点とじっくり咀嚼しないと正確に(文字通り曖昧にではなく)理解し難い点が混ざっているんですね。

 

というわけで、この辺のことは今後、何回かに渡って記事にしていきたいと思います。ひとつ付記しておくと今回の改正は「変わった」だけでなく今まで曖昧だったポイントが「炙り出された」とも言えるんものなんですよね。はい。

 

さて本日は先週末に練習試合と公式戦(U12とU15)の審判員を務めて思ったことを。で、またまたなんですけど直接的には審判法とは関係ない話です。あと、これから書こうとしていることは実は今まで避けてきたことでもあります。それは「指導」ということについてです。なんか歳のせいにするわけでもないんですけど、ご多分に漏れず最近説教臭い言説が段々と増えてきている私です。

 

あくまでこの「部屋」はサッカー審判員としての私の反省を記事にしているつもりなので、今まで指導者の方、つまりサッカーのコーチや監督の方の批判になるようなことは書いてこなかったつもりですけど、今回はそこに半歩?踏み込むかもしれませんので、「そんな考えもあるんだな~」程度でお聴きくださいませ。

 

さて、いつも通り長い前置きで失礼しました。それはU12の試合でのインターバール時間に私が見聞きしたことに始まります。

 

前の試合の主審を終えてイスに座って別のチームの試合を観ていると一方のチームのコーチと思しき方がベンチ後方にて前半に出場していたと思われる選手に「コーチング」をしていました。聴こえてきたコーチの声はほぼ同じ言葉を繰り返していました・・・。

 

曰く「責任感がないんだよ!」。

 

どうも具体的内容がいまひとつ把握できないんですけど彼女(女子選手です)がディフェンスすべき場面でボールに対して詰めなかったせいで得点になってしまったというような内容です。繰り返される「責任感がないんだよ」のコーチの言葉を彼女は直立不動で黙って聴いていました。そして何度かその言葉が繰り返されて、一切の相互のやりとりはないまま、その「コーチング」は終わり彼女はうつむいたままグランドに膝を抱えて座りました。そのなんとも言えない寂しいそうな表情・・・。

 

 

さて、これが「コーチング」として適切かどうか、はたまた「指導」と言えるものかのかどうか、その後どのようなフォローが彼女にあったのかは私が知るところではありませんので、ここではその時に私が感じた事そして膨らませて考えことを書いてみますね。

 

さてまずこのコーチの方が指導者であったことは間違いありません。ここでいう指導者の定義は「非指導者に指示を出す人」です。とりあえず難しいことは置いといて自分が期待している(プレー)を選手に指示する人ということです。このコーチの方と選手である彼女の間には「指示を出す人と出される人」というもの以上の関係があるのかもしれません(ないのかもしれません)。そしてこのコーチの方は「私は指示などしない選手の背中をそっと押してあげるだけだ。指示待ちの選手なんていらない」とおっしゃるのかもしれません(ないのかもしれません)。

 

さてさて、無理やり上記のような「指導者とは指示を出す人」と定義づけると「責任感がないんだよ」という「指導」は「責任感を持て!」という指示になります。いや、こんなに回りくどく書かなくても、私が目撃したコーチの方が彼女(選手)に期待したことは文字通りそういうことなんでしょう。

 

はてさて、私が3級審判員を目指してインストラクターの方から頂いたコメントの中で(彼らも広義の意味で指導者です)「責任感がないんだよ!」とか「責任感を持って試合に臨んでください」などと言われたことは一度もありません。それはヘッポコ審判員だった(で今も現在進行中)私が責任感にあふれていたから・・・ではなく、インストラクターの方のコメントはすべて「具体的な事象に基づいた」具体的なコメントやアドバイスだったからです。

 

シグナルの出し方や笛の吹き方の基本が出来ていない、オフサイドラインをキープ出来ていない、ボールやプレーに十分近づけていない(走っていない)、ポジションが悪い、主審や副審との事前打ち合わせが不十分等々、これらの事象と自分の審判法の拙さについて指摘されたり「指示(もちろんインストラクターの方々が仰ることすべてが『するべき、従うべし』の視点で発せられているわけではないことを承知であえてこの言葉を使えば)」されるということは審判員としては「責任感がない!」と断言されても甘んじて受け入れざる得ないこと、なのかもしれません。こうなると帯同審判員の中で極まれにオフサイドラインのキープが全くできていない(やる気がない)指導者の方を見るとまさに「責任感がない!」と言われても仕方がないように思います。ここまで酷くないにしろゴールラインまで走っていない副審の方やセンターサークル審判員の方を見ると「ああっ・・・」って思ってしまいます。

 

これをご自身の仕事ぶりにまで拡大してみるとどうでしょうか?社会生活全般に拡大してみてください。「私は責任感が欠如したことはただの一度もない!」なんて言える方はもうイチロー選手や長谷部選手並みの自己管理能力をお持ちなのか、もしくは自己認識能力が著しく欠如しているかのどちらかです。

 

ここまで書くと「ああ、だから精神論はダメっていいたいのね、具体的な事象に基づいた『コーチング』のスキルが足りないってことね」とか「成長過程にある子供と大人じゃ指導っていってもその内容や方法が異なって当たり前でしょう」ってお言葉が聞こえてきそうです。

 

正直、その通りで私が最初に感じたことは、そのコーチの方の指導(この言葉が一方的過ぎるならコーチングと置き換えて下さい)スキルが不足しているなということです。そもそも「責任感が足りない!」と言われた事象(プレー)を彼女(選手)と同じレベル(細部や全体感)で認識できているか(頭の中で再現して同じイメージを共有できているのか)も怪しい。彼女の認識で欠落している部分も確かめずにいきなり「指導」すると、そもそも何のことを言われているのかさえあやふやになっている・・・かもです。もしくは彼女の行動と「責任感がない」という精神状態(はたしてそれはどのような状態のなのか私には説明不可能なんですけど)の因果関係は・・・・?つまりコーチが繰り返している言葉の酷く「一般化」された否定的なニュアンスは感じ取っているものの、それ以上のことが自分の言動や姿勢として具体的に捉えきれず途方にくれさせてしまっている・・・。例えばこのように相手(選手)の理解レベルを確認しながら伝え方を変えたり調整したりする指導者としてのスキル・・・が足りてない(だから決して指導者の方の資質とか人格云々の話ではありません)のでは・・・と思った次第です。

 

でも、この記事で言いたいことはそのような精神論の否定やコーチングのスキル云々ではないんですね。そもそも私にはそんなスキルを語れる知識もありませんし、実行する能力もありませんので偉そうに語れません。一方で私が強く感じて考えを膨らませてしたったのはまさにこの「指導者になる」ということ・・・特に「子供の指導者になること」の重みとそこに潜む根の深い問題についてなんです。

 

「ここまで書いておいてまだ前置きだったのかよ」みたいな展開で、またまた御免なさい。

 

そう、実は我々はだれでも「指導者」になったり「指導される者」になったりした経験があるわけです。そしてどのような形であれ子供のときに受けた指導は色々な意味でその後の子供の行動や考え方にまで影響を及ぼす・・・特にスポーツのように身体の動きを伴った指導は非常に強い影響を成長過程の子供たちに及ぼす・・・と思うわけです。

 

このことを論理的に証明しようとすると大変なことになるでしょうし、残念ながらそのような力は私にはないので、ここでは私の勝手な仮説として申し上げることお許し下さい。

 

「身体の動きを伴った指導」というものは何もサッカーなどの競技に限った話ではなく、私たちが子供のときに行っていた運動会の練習とか体育の授業とかも含まれるでしょう。もっと広義に考えると一定の時間起立整列して校長先生の話を聞く朝礼とか校内で行われる清掃活動なども含まれると言えるでしょう(なぜならこれらは身体の動きをもって《例えば直立しているとか両手を使って床を拭いているとか》指示通り行わなければならない活動だからです)。これら「身体の動きを伴った指導」の極端かつ分かりやすい例が軍隊での訓練となるのではないでしょうか(その指導が良いとか悪いとかいう評価軸は別にして)。

 

で、このような指導は誰かが急に思いついたわけでなく代々引き継がれてきているものです。大袈裟に言えば人類の歴史を通じて世界中のいたるところで引き継がれたきたものと言えるでしょう。なので、指導方法の違いは当然あるにしろ本質的には身体の動きを伴った指導は強力な作用を人間に及ぼす「装置」として使われてきました。ここでいう「装置」とは社会に広く根付いた仕組みとも言い換えることができます。(実はここに書かれていることはフランスの哲学者ミシェル・フーコーの著書「監獄の誕生ー監視と処罰ー」の中で鋭く描き出されています。とても示唆に富む本なので興味ある方は是非ご一読をお勧めします)。

 

なので私たちが子供たちにサッカーを指導する場合も完全に自分独自の方法で行っているというより自分が子供だった時の指導者やその指導者の指導者から受け継いだものが知らず知らずのうちに自分の指導法の中に毛細血管のように広がった結果出来上がったものとも言えるのです。それは指導者という名でなくても学校の先生だったり自分の親だったり部活の先輩だったり、指導主体がその時々において姿形を変えて私たちのその後の言動や考えに大きく影響を及ぼしているのです。

 

何世紀、何代にもわたって引き継がれている、影響が及ぼされている・・・なんて大袈裟な話に聞こえるでしょう。まして「自分は旧態依然とした指導方法とは全く異なる最新のコーチングを理解して身に付けている」なんて方からすると「ナニ言ってんの?」の世界でしょう。妄想・・・でしょうか?そうかもしれません。でも最初に書いた「責任感がないんだよ!」のコーチの方の事象を思い出すにつけ、指導者個々の方々の違いはあるにしろ、やはり社会の大きな仕組みとしての指導方法は何十年も、いや

ひょっとしたら戦前からそう変わっていないのではと、これまた妄想してしまったわけです。

 

いきなりですけど1943年に出版された日本の教育心理学者による指導および指導者についての研究の本があり、そこには以下のようなことが書かれています。

 

●指導の根本原理は被指導者の絶対的服従の要求である。

●先の根本原理を成立させるための指導者資格とは(1)熾烈なる責任観念(2)鞏固なる意志(3)先見的明察の力(4)高慢なる徳性(5)被指導者に対する愛情

の五つである。

 

戦時下という特殊な状況で書かれたものとはいえ、なんか昨今のビジネス本に書かれていても違和感ないような内容ですね。いえいえ「絶対的服従の要求」なんて書いているノウハウ本なんて最近ないでしょう。でも一方で上記のような根本原理とは真逆なことが理想とされている現代にもかかわらず依然「絶対的服従の要求」に似た事象が見られるのはなぜなんでしょうか(ここ数年の学校や部活での指導における事件を思い出してみてください)?(で、一方で先週末U-15でご一緒した先生方は選手(生徒)に一方的な服従を求めているような方々ではありませんでした)

 

そうなんですよね、思うに指導という「装置」、つまり社会に広く根付いた仕組みは個人単位の啓蒙だけではそう簡単には変わらないのではないでしょうか?そのことは戦後の民主主義的な価値観からすると「悪」と捉えがちな戦前の指導法がすべて廃棄されたわけでなく私たちの中に(意識しようとしないとにかかわらず)脈々と受け継がれていることからも推測できるのではないでしょうか?最近教育史に興味のある筆者は、当時の指導法やなぜそのような指導法に至ったかを現代の価値観からだけで一刀両断するだけでなく(かといって過去の礼賛でもなく)客観的に冷静に分析することがとても大切だと思っています。なぜなら子供を指導する「装置」、つまり社会の仕組みはいったん根付くと容易には変えられないし、使い方を誤れば(なにが正しい使い方なのかは今回は触れませんけど)大きく社会を誤った方向へ導いてしまうからです。

 

筆者は個人単位の啓蒙だけでは抗しがたいこの指導という「装置」の巨大さを感じながらも、先に書いたサッカーインストラクターの方々のコーチングに、この「装置」を部分的に変えていくためのヒントがあるように思います。つまり個々のインストラクターの方々も拭い難い影響を子供時代に指導者から受けていながらも被指導者に「絶対的服従の要求」などしない合理的な(そして同時にヒューマンな)コーチングを身に付けられているという事実・・・これには勇気づけられるものがあります。つまりサッカーインストラクターという「装置」が個々の差を超えて機能しているという実例です。このような実例をもっともっといろいろな分野の指導者にも応用していけるのでないでしょうか?(しかし偉そうでごめんなさい・・・)

 

まあ、現実はそう簡単ではないでしょう。そもそもサッカーの指導者は資格がなくても出来てしまうわけですから、指導の仕組みを変えようにもなかなか組織的に行うことは難しいでしょう。

 

さて、冒頭に書いた私が目撃したコーチの「指導」に話を戻すと「責任感がないんだよ!」の言葉は実は彼女(選手)に向けられるべきものではなかったのではないでしょうか?

 

その言葉は本当はそれを口にしたコーチの方自身に向けられるべきものではないでしょうか?

 

それは次の様に自問すべきことだったのではないでしょうか?

 

つまり:

 

「自分は指導者として責任感をもっているのか?」

 

と。

 

ここまできて、言うのもなんですけど「責任感」ってなんでしょうか?

つまり指導者としての「責任感」とは?

 

それこそは指導者の方々が答えをお持ちのことだと思いますのでここにはあえて記しません。

 

さて今回の記事、日々色々とご苦労や悩みが絶えないコーチや監督の方には勝手な言い分に聞こえたことと思います。もし不快に思われたらお詫びいたします。ただ、それだけ皆さんへの期待は大きく重要なことを務められているということが私がここで言いたかったことです。

 

とまあこの辺にして、次回から出来れば改正された競技規則の解釈について切り込んでいければと思っております!

 

では、I'll be back.

 

 

 

 

 

 

一挙再掲載! 「サッカー審判員の「無知」が選手の生命を危険にさらす(前編&後編)。」

 も~う、酷暑と言える1日でしたね今日は。

 

というわけで過去記事、再度掲載させていただきます。

 

 

サッカー審判員の「無知」が選手の生命を危険にさらす(前編)。

 

サッカー審判員の「無知」が選手の生命を危険にさらす(後編)。

 

熱中症予防、重症化回避には水分補給&正しい知識も必要ですけど、まずは十分な睡眠と栄養補給(食事)です。これすごく実感しています。

 

今週末の審判も万全の体調で臨みましょう!

 

では、I'll be back.

 

 

 

飲水タイムふたたび

さて前々回のこちらの記事(→ 飲水タイムで最も大切なこと )に対して審判ビギナーズさんからコメントを頂きましたのであらためてご紹介させていただきます(以下原文まま)。

 

「はじめまして、いつもブログ読ませて頂き勉強させてもらっています。
今回の飲水タイムの記事で気になる点があったのでコメントしました。
4種でも飲水タイムの空費された時間は各前後半の試合時間に追加して良いことになっています。ですので、飲水タイムの時は時計を止めます。また、アウトオブプレーの時にはタッチライン上での飲水は認められています。
地域によって違うのかも・・・・。
札幌も暑い季節になりましたので熱中症と落雷には注意していきたいです。」

 

で頂いたコメントに対しての私の返信も原文のまま。

 

「審判ビギナーズさん、いつもありがとうございます。こちらこそ勉強させてもらってます。ご指摘の通り飲水タイムをアディショナルタイムとすべきかランニングタイムとすべきかは競技会規則や大会要項によって決まりますね。どちらの場合にしても「空費」は最小限にするのがポイントだと思います。また給水タイムではなく3分間のブレイクを設けるなどの場合もあるでしょう。ちなみにこの場合はアディショナルタイムとはしない(表示追加時間としない)ということになろうかと思います。これは例えば試合中にゴールポストやネットに不具合が生じこの修繕に時間を費やした場合アディショナルではなく試合時間を完全に停止して再開されるというタイムマネジメントとするケースと同じわけですね。さてタッチライン上での飲水を4種でも実行されているとは素晴らしい。参考になります。今後もアドバイスよろしくお願いします!」

 

なんかコメント頂いたのに自分の非を認めずに偉そうな返信になっているような・・・(汗)。でその後、色々調べてみると上記で触れた「3分間のブレイク」つまりcooling breakクーリングブレイクの場合、その時間はアディショナルタイムに含める場合もあれば試合を中断させてアディショナルとは表示しない場合もあるということが分かりました。これも飲水タイムの取り扱いと同じく競技会規則や大会要項で確認し、試合前に大会運営本部と合意しておくことが必須ですね(ブレイクの場合時間の長さも要確認です!)。なんか自分の無知ぶりを(と同時に経験不足)さらけ出してしまいお恥ずかしい限りです。

 

いずれにしてもこれからの時期、審判員にとってますます重要なマネジメント項目なので試合前の確認は絶対にやりましょう(・・・まずは自分から・・・です。はい。)

 

それにしても今日も暑かったです。筆者は割と温暖な地域に住んでおりますけど、所用で今年は何回か審判ビギナーズさんがご活躍されている札幌を訪れております。で、勝手なイメージで札幌はとても寒い、もしくは何時も涼しい街という印象だったのですけど・・・必ずしもそうではないんですね。ちなみに今月も訪れる予定なので、どの程度の暑さなのか体感したいと思います。楽しみ・・・ただ筆者は飛行機が大の苦手なのでありますけど・・・。

 

では、I'll be back.

サッカー審判員は常に「当事者」であるべし!の巻。

この週末は久しぶりの実戦、それも初めて経験することが多々あった3種の公式戦でした。

 

この試合については色々と学ぶことが多く「まだまだ知らないことが沢山あるな~。」と思い知らされた次第です。豊富なネタ満載のこの試合についてはあらためて詳細に記事にしたいと思います。

 

さて、今回思ったことを。それは当たり前ですけど、審判員はやはりフィールド上の審判ぶりで評価されてナンボということです。私なんか偉そうに?記事を書き綴っていますけど、審判員としては未熟も未熟。というか、いくら審判について専門的な知識を持っていたり語れたりしても、審判員としての評価は試合においてどのように実行できたかどうか、の1点ということです。

 

これには1級も2級も3級も4級もないですね。4級の審判員の方が3級の人より2級の人よりある試合を上手くコントロールできた・・・というのはあり得る話です。逆に「俺の方が上級なんだから・・・」って姿勢で話されても、試合での審判ぶりが??な状況であれば・・・説得力ないですよね。

 

で、最近仕事においてもすでに「年寄」のカテゴリーに入っているであろう私が心に留めていることがあります。それは、ちょっと単純化し過ぎなんですけどある組織の中にいる人を「能力」と「経験」の掛け合わせで分類すると以下の四つのパターンに分かれるということです(ここでいう「能力」とは、自分で見たり聞いたり感じたり実行したりしながら関わってきた事象すべてを「経験」とした場合に、その人が今の時点で持っているあらゆる技術、精神力、思考力、体力、コミュニケーション力等の総体とお考えください。また求められる「能力」とは属する組織によって異なるので万能というものではありません)。

 

① 能力があって経験もある = 即戦力、主力

② 能力があって経験はない = 金の卵

③ 能力はなくて経験はある = 「害」をおよぼす人

④ 能力も経験もない    = 戦力外

 

①でありたいと思いつつ、審判員における私は鍛錬を怠ると④で終わってしまいます。で、日々の営みで同時に注意しているのが③にはならないようにすることです。実はこれはだれにでも起こり得る「落とし穴」ではないでしょうか?

 

ひとつ念のために書きますけど、決して「経験」を「能力」より下に見ているわけではないのです。「経験」を積むことは何事にも代えがたい貴重なものです。また「経験」を通じて能力は磨かれるはずです。ですので上記にある「能力がある」とは「能力を磨こうとしている=向上心」と読み替えて頂いて結構です。

 

逆に「能力がない」状態とは謙虚に自分を見つめなおして自分を磨こうとすることを忘れてしまっている状態ということなのです。

 

例えば周囲や「上」を批判したり論評しているうちに、実は自分が気づかぬうちに仲間や部下に悪影響を与えて組織停滞を招く足枷になっている・・・なんてサラリーマンの方でなくとも身に覚えがあるのではないでしょうか・・・。そう、この時点で「当事者」であることを忘れ、上から目線のまま謙虚さを失ったまま他人の批判には舌鋒鋭く、自己認識は鈍い・・・なんて「くわばらくわばら」ですね。

 

というわけで、やはり試合で自分を磨くしかないわけです。自分でリスクをとることだけが、そして「当事者」になることだけがサッカー審判員を審判員たらしめる最低要件だという気づきを得た私でした。

 

では、I'll be back.